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久遠の太陽ー法華一門の物語

久遠の昔に虚空会(こくうえ)において、同じ時を過ごすことを決め、生まれ合わせた友がいることを皆さんはご存じでしょうか?はるか昔何に命を途(みち・と)するのかも既に誓い合わせています。馴染みのない仏法を、性別・年齢・国籍を問わず。身近な精神性として活用されるよう祈ってやみません。どうかいつも笑顔でいられるように。欲しいものを易々と引き寄せられるように。環境さえも自在に変えゆくことが出来ると気づくように。平和な世界が訪れる時を待って。すべての友・同志にこのページを贈ります。このブログは随筆です。

未来を創るこども達へ。ーいじめと差別

最近悲しいほど、いじめと差別が起こっています。

なぜいじめが起こるのでしょう?差別とは?

 

「差異を認める」という言葉があります。

差異とは…他のものと異なる点。ものとものの違い。差。  「デジタル大辞泉」より

 

どうでしょう?

太っている・痩せている、背が高い・低い、色が白い・黒い、体が不自由だ、具合が悪そうだ。等。

これらを認め、気づくのは、差別でも偏見でもありません。

気づくことで思いやりが生まれます。気づくから差異を理解しようとします。理解するには努力が必要な時もあるでしょう。人には好き嫌いがあり、差異を受け入れるには時間が必要な時もあります。

ですが、「差異に気づく」こと自体は決して差別ではありません。相手と自分が好き嫌いの感情を認識しても差別ではありません。

それを行動に出すことーこれを差別といいます。

差別とは…取り扱いに差をつけること。特に、他より不当に低く取り扱うこと。   「小学館」より

   

 ※

以前のことです。障害がある方又は体調不良の方に出会うことがありました。

当然、差異に気づきます。気遣いを始めます。場合によっては声をかけます。

こちらから「具合お悪いですか?」。


それでは、相手は??

尋ねただけで、差別を受けたと思う方がいます。

なぜでしょう?多くは彼ら(差異を認められやすい方)の過去の経験に基づく感情のー連鎖反応です。

以前に差異を認められ嫌な経験をしたことがある。

差異に気づき、相手の方が、貴方にどのような感情を抱いても、本来は貴方が責める問題ではありません。好き嫌いがあり・他者を受け入れることに抵抗を持つことーは人間の能力だからです。

差異の認識という能力によって、危害を加える者に気づくことさえあります。泥棒や暴漢等。

 

では、前術の障害・体調不良の方の場合は?

 

本人またはそのご家族側が、体調が違うということをさりげなく伝えたらどうでしょう?相手が差異に気づき、”どうしたのだろう?”と思っている時に、自分達側のご事情を、さりげなく伝えられる範囲で。

そうすることにより、短時間で理解が深まります。どう対処したら相手が快適なのかも。自分たち側の過去の経験による「逆の偏見」ー相手から差別されているという思い込みを短時間で解消できる事があります。

 

本当に、差別で嫌な思いを繰り返し受けているのであれば、処世術として、相手の理解を自分から促すのも本人たちの課題ではないでしょうか?あくまで伝えられる可能な範囲で。

 

背が低い・高い、太っている・痩せているという差異について、明らかに嫌な顔をする…等は差別でしょう。

好き嫌いがある・差異を認識し受け入れるのに時間がかかるのは責めてはいけない範囲です。

差異を認識するのは能力。好き嫌い・すぐに受け入れられるかどうかは感情。それを基に行動して初めて「差別した」ーとなります。

差異に気づく事と差別する事を区別する。本来の共存共生といえるのではないでしょうか?

 

では、なぜ「いじめ」は起こるのでしょう?

一言で言うと「自分と他人のものの区別がつかない」からです。

何を区別しなければいけないかは、物・人・テリトリー・感情等です。本来、これらはすべて、他人と自分との境界線を持たなければならない、命の尊厳に関係します。

昨今、自分と他人を区別出来ない人があまりにも多すぎます。

家庭で一番最初に教えるべき問題です。区別する事で、子どもが大人の所有物ではなく、自立した個人として成長します。

区別するから、自分(大人)とは違う能力・個性の人(この場合はこども)に教え、諭し(さとし)、導くことができるのです。必ずしも人は、大切な存在(こども)を、いつまでも守ってやれるとは限りません。できるだけ早い時期に大人の方がそれに気づくと、自立心・成長する能力に良く働きかけることがあります。

 

「貴方と自分は別の人」「貴方と自分は別の特徴・役割」ー仏教では黄梅桃李(おうばいとうり)と言います。

貴方という存在は、そのまま存在するだけで十分だ。ありのままで尊重されるべきだという根底思想に基づき、人は皆違い、本来の個性のままに尊重され、生かそうとする考え方です。

 

では、物を区別する事は比較的わかりやすいですね。テリトリーも。

人の物と、テリトリーを区別するのは当然です。

では、人と感情は?? 

違って当たり前、自分が思う通りに相手が思うとは限りません。自分が思ってほしいように、相手が思ってくれるとは限らないのです。感情さえ、自分と他人とは違う、別のテリトリーです。

 

この原理原則を忘れ、あまりにも幼稚に、人を思い通りに支配したい・また自分と同じように思ってほしいというエゴィスティックな考えで行動してしまう。

この原理原則を忘れた時に、人は人を支配し、権力や暴力、言葉により、「自分とは違う別の人」に精神的・肉体的危害を加えます。物・テリトリーはどうにか区別しても、人物・人の感情は自分の思うままに支配しようするのです。もしくは自分と同じように思わなくてはいけない・言わなくてはならない等…。

 

具体的に、砂場で、自分の子が人を押したら気づきましょう。いけないこととして。謝る術を教えましょう。ー有益な次の人間関係を創るために。

列車で座っていて、自分の子が他の人(大人でも)に迷惑をかけたら、諭(さと)しましょう。子どもは尊重される存在ですが、子どもという理由だけで偉い存在ではないのです。ーそれを教えるために、周りの大人、特に親がいます。子どもでも出来る範囲で「ダメなことはダメ」なのです。

基本的なことを幼少期に教わっていないと、成長してからも、平気で人の物・テリトリー、多くは感情・人そのものに手を出し始めます。

”この友達すごいよね・仲間だよね”…貴方に尊敬できても人も同じように感じる必要はありません。感じ方が違い異質だと、気に喰わない、陰湿な仲間はずれが始まります。同じように群れをなして、行動する必要はないし、同じように口を揃えて良しとする必要はないのです。…人は違う感じ方のまま、その時々に、その場を共有するものなのです。

”あいつ横着だ!”…横着でしょう。それは貴方が勝手に思っていれば良いのです。横着に感じるという理由だけで、貴方でない別の人の体や心に手を出すことは絶対に許されません。場合によっては、その人の持っているバッグまで取り上げ、川等に投げ捨てようとすらします。ーその人の体や持ち物・感情は、友人であれ、親子であれ、上下関係であれ、絶対に貴方のものではないのです。

 

自分の利害関係または自分の立場を保つための良所は、他人と必ずしも同じではなく、本来は、人に併せて良しとする必要さえありません。他人の持ち物・他人の人間関係・他人の体・他人の心。すべて自己都合の、自分のための持ち物ではないのです。

 

自分と同じでない、好みでないことを理由に、人の心・肉体・行動の束縛をし、手を出す(行動や言葉)ことがいじめなのです。本来は、他人の感情すら自分のものでないのだから、自分と違う感情の持ち主を絶対に責めることはできません。ましてや物理的に危害を及ぼすなど論外です。

気に入らなければ話し合えば良い。理解できなければ離れれば良い。この「理解できなければ離れれば良い」という点が大切です。

自分のものでない他人というテリトリーに、差別という行動で自分が手を出してはいけないのです。

 

どうせ自分が中心なら、自分に因がある(因果応報・いんがおうほう)を考えてみてはいかがでしょう?人が違うのが原因ではなく、自分の感じ方・行動に本来は原因が有り、それが多数集まり、相互作用を起こしながら人間関係・社会が成り立っています。独立した、”自分に原因が有る”という個人が、集まったのが集団です。

 

※ 

仏法は万人に等しく与えられた思想の宝です。

この宇宙根底の法だけは、例外もなく、皆平等であります。この法を命のベースとすることが、思想です。

私達は世界に、万人にこの思想を伝えていくことを、自分の命のテーマとしています。

何に命を使うのか、使命ともいいます。

 

人と人。1+1は100にも200にもなります。1万にも2万にも。

このブログのテーマである久遠の同志・友を仏法により、呼び顕す。偶然に思える家族も実はそうです。

家族にいじめを相談できなければ、自分より知恵を持った人に相談すれば良いのです。

相談する人がいなければ、創価学会の文化会館には経験豊富な人たちが必ず待っています。

解決できる命を自ら絶ってしまわずに、どうか違う場所・解決の仕方をもう一度見つめてください。

私にもぜひご連絡ください。terumi.waxingmoon23@gmail.com 池田輝美

 

差別やいじめではなく、悠久の時からの友を仏法により、探してみてはいかがですか?ぜひ待っています。

 

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